クオリアに才能を投資するべきでないと考える理由

ダニエル・デネットの「Sweet Dreams」4章のクオリア議論から。
Wikipediaや邦訳の表現はわかりづらかったので、自分の中でわかるように表してみた。
まだわかりづらいかもしれない。

●クオリアの定義

クオリアに対する定義は、実は各個人で非常にバラバラである。
それでも、クオリアは下記のようなものである、という定義はおおよそ共有されているようだ。
「クオリアは一人称視点(主観)でしか観察できず、三人称視点(客観)では観察できないもの」
「内在的。人間に固有の属性であり、物理学的に同じ構成の人間を用意してもクオリアが発生するとはいえない」

●よく使われる言いまわし
・我々が赤という色を見たときの質感がクオリアである。
・生物学的に、人間の視神経や脳の基本的な構造は同じだ。
 しかし、物理学的な構造が同じでも、我々が見ている赤色は、他の人が見ている赤色と違うかもしれない。あなたの横にいる人は、あなたが青色を感じたときの印象で、赤色を感じているかもしれない。
・赤色を表す光の波長は定義できるだろう。しかし、我々が赤色を見たときの質感は
 共有できないし、従来の科学的手法では捉えられない。

・立場A:我々の意識の中で起こっているクオリアの問題は、科学の範疇では根本的に扱えない。主観的手法で扱うべきだ。
・立場B:我々が現在行っている科学的手法は、クオリアの問題を扱うのには不十分である。クオリアを理解するために、現在の科学的手法を拡張してやる必要がある。

●議論の前提となる知見
Rensinkらの研究。2つのよく似た写真をそれぞれ250msの期間、間に290msの何もない黒い画像を挟んで交互に見せると、人間は数秒後から十数秒後に初めて、その2つの映像の違いに気づく。
たとえば、棚の扉の色が片方の写真では白い。もう片方では緑。

●問い
扉の色の違いに被験者が気づくまで、被験者のクオリアは変化したと思いますか?

●選択肢
A. はい
B. いいえ
C. わからない

→A「はい」を選んだ人
自分の中で定義したクオリアは、物理学的な変化に基づいて変化し、被験者自身の一人称視点ですら観察できない場合があると認めるざるを得ない。
クオリアの定義「一人称視点でしか観察できず、三人称視点、従来の科学的手法では観察できない」が怪しくなる。
自分自身のクオリアを最もよく観察できる人物は、自分じゃなくて他人かもしれない、という事実を認めざるを得ない。

個人的結論:内観で観察できないけれど科学的観察が出来るものがあると主張するなら、素直に科学的な手法で調べればいいんじゃないか、って話。内観から調べることで省力化できる例はあるかもしれないが、他人と意思疎通のし易い科学的手法を選ぶのがベターだろう。


→B「いいえ」を選んだ人
物理学的な脳の状態観測で違いがない状況でも、クオリアは主観によって変化する、とクオリアを定義する立場を選んだことになる。
自分自身のクオリアに対して、あれこれ言う立場を保つことが出来る。
ただし、今度はクオリアの定義「内在的。人間に固有の属性であり、物理学的に同じ構成の人間を用意してもクオリアが発生するとはいえない」が怪しくなる。
この場合、クオリアとは単に”気づき”の状態を定義した別の用語に過ぎないことになる。

また、この立場を取る場合、哲学的ゾンビと人間の差はなくなり、哲学的ゾンビがクオリアを持つことを論理的に否定できない。
物理学的に同じ構造のゾンビを作成したとき、このゾンビも同じタイミングでクオリアが発生した、と述べることが可能。これは哲学的ゾンビの議論の前提を崩してるし、哲学的ゾンビが現実に存在するという、全ての妥当な理由を奪っている。

結論:物理的に同じ構成でもクオリアが存在しうる(否定できない)なら、それ作って検討して良いことになる。不確実な内観に頼るよりマシ。


→C「わからない」を選んだ人
ギブアップ宣言。この場合、発言者は自分の中でクオリアを定義できていなかったか、クオリアは主観でも観察できないし、科学的手法でも観察できないと発言したことになる。

結論:この立場の人は、クオリアという用語をファッション以上のものとして見ていない。

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●個人的意見:
私は古典的な唯物論者に近く、デネットと同じ立場でクオリアという用語を見積もっている。
脳みそのためのチューインガムかファッションに属するもので、酒の席の話としてはいいが、真剣に議論し、思考を投資するのは時間の無駄ではないかと疑っている。

もちろん、一見無駄な言葉遊びが、重要な概念を類推させることはあると思う(そういった類推による思考法は、個人的に大好きだ)。
ただその場合、クオリアという単語は科学の棚ではなく、小説やアートと同じ位置に置くべきだろう。趣味として投資する分には問題ないけれど、重要なものであるかのように喧伝するのは、いささかの倫理的な問題があると感じる。

●個人的興味:
クオリアが存在する、クオリアという概念に思考を投資するべきだ、と考える人が、上記の問いに対しどの答えを選ぶかは気になる。また、その反論も

●感想:
時間による現象の推移を真面目に考えたのが、デネットの勝利要因ではないか。
サールの中国語の部屋にとどめを刺したIJCAIの論文(中島先生が今年の人工知能学会誌1月号で解説された論文)も、2つの一見同じような情報処理を、計算量のオーダーの違いに落としていた。
古典的な哲学は、動的な概念を扱うための道具を欠いているように見える(単に知らないだけかもしれない)

今の時代、人間の意識・思考の問題を真面目に扱いたいなら、正面から生物学に取り組むか、情報科学の手法をもって上下に押さえこむか、どっちか、あるいは両方じゃないか。
少なくとも、進路を迷っている他人に対し、私はこの立場で助言する。

コメント

川島英之 さんのコメント…
クオリアは聞いたことはあっても理解できていない概念だったのですが,この記事のお蔭で勉強になりました.
osawa さんの投稿…
ありがとうございます。私も長らく理解出来ない概念でした。
時間があるときにもうちょっと表記をブラッシュアップしたいと思います。

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